fusachikoの日記

会社を辞めて、外国へ。

「ありがとう」と「ごめんなさい」は忘れずに

職場に、どうも好きになれない人がいる。熱い気持ちを持っていることはわかるし、そこに同意はできるし、不器用だけど仕事に一生懸命なこともわかる。チャーミングなところも発見した。でも、どうも好きになれない。

 

なんでだろうなぁと考えていて、ようやくわかった。その人から「ありがとう」と「ごめんなさい」を言われたことがないからだ。

 

高速で原稿を仕上げたときにも、その人が課題だと言っていたことに対する施策案を出したときにも、「ありがとう」がない。仕事の納期が差し迫る中で突然の重ための修正を依頼されたときには「ごめんなさい」がなかったし、対応したあとも「ありがとう」がなかった。

 

心のうちはわからない。申し訳なく思ってくれているのかもしれないし、すごく感謝してくれているのかもしれない。でも、少なくともわたしには伝わっていない。

 

小学生の標語みたいだけど、あいさつと、ありがとうと、ごめんなさいは、どんなに偉くなろうとも、年上になろうと、絶対におろそかにしてはいけない。気をつけよう。

いい仕事、いい人生

昨日の続きです。

fusachiko.hatenablog.com

 

わたしにとって住む場所はどうでもいいことがわかって、じゃあ何が大事なのかというと、それはたぶん、仕事だ。

 

今の職場では、ウェブサイトの製作チームに所属している。日本で働いていたときもウェブサイトの企画・編集の仕事をしていたから、仕事の内容はあまり変わらない。今後もこういう仕事をやっていきたいと思っているから、方向性は問題ない。

 

ただ、圧倒的に業務量が少ない。むしろ、足りない。仕事が物足りなくて、依頼される案件しかやらないのもつまらないし、それならばと思って新企画を提案してみたり、サイトの数字分析をしてみたり、もっとたくさんの人にみてもらうための施策を考えてみたり、といったことを昨年末くらいからするようになった。

 

ミーティングの場を設けてもらって、営業やシステムや社長に説明し、実際に実行に移したものもある。ただ、どうも腰が重い。製作サイドからの提案になれていないのと、老舗の会社で、上の人たちはおじさんで、おまけにウェブの知識がほぼない。新しい提案に対し、否定的な意見も多い。

 

わたしもわたしで、今年8月には日本に戻るつもりで、つまりいまの職場は期間限定。だから、どうも「絶対にこの企画を通してやる!」という熱意がわかないというか、「みんな乗り気じゃない企画を頑張って通したってわたしがいなくなったら続かないんじゃないか」とか、「あと数ヶ月で日本に帰るやつがガーガー言って迷惑なのかもしれない」とか、余計なことを考えてしまう。

 

残業は一切ないし、仕事に追われることもない。でも、正直に言ってつまらない。そう気付いてしまったときに、初めて日本に帰りたいと思った。腰を据えて、働きたい。愛せるサービスに携わって、仕事に熱中できる人たちと、密度濃く、前を向いて働きたい。

 

ワーホリビザは30歳のうちに申請すれば31歳まで使えるから、わたしはもう1年ワーホリビザが取得できる。だからオーストラリアのあとはカナダとかアイルランドとか、他の英語圏に行こうかなと思っていたけど、海外に住んでみたいという気は済んだし、もう充分かな、というのがいまの気持ち。

 

30歳という節目のタイミングで、自分にとって大事なことが見えてきたのは、とても大きな収穫だ。

海外で暮らしてみて、住む場所はどうでもいいことがわかった

生まれてから29年間、ずっと東京で暮らしていた。東京を離れたことが最長2週間くらいしかなくて、「このままこんな狭い範囲をうろちょろしていていいんだろうか」と思ったのが、海外で暮らしてみたかった理由のひとつ。

 

去年は4ヶ月フィリピンのセブ島に、そしていま、シドニーに住んで半年が経った。たいして長い期間ではないけど、初めて東京以外の場所で生活してみて、わたしにとって住む場所はそんなに重要なことではないのかもしれないと思うようになった。

 

わたしは、ほかの人よりちょっとばかし適応能力が高い。電気や水道といった基本的なインフラが整っていないところはちょっとわからないけど、トイレットペーパーを流せないフィリピンもゴキブリがたくさんいるシドニーのシェアルームも3日で慣れたし、それなりに快適に過ごせる。生活する上で何か不便があっても、どうにか工夫して少しずつ暮らしやすくなっていく過程が好きでもある。

 

そして、けっこうタフだ。フィリピンで水やら油っぽい食べ物やらでみんながお腹を壊したり、気候の違いから体調を崩したりするなか、わたしは一人、ピンピンしていた。嫌いな食べ物はないし、食への好奇心が強いから現地の訳のわからない食事をワクワク楽しむことができる。スーパーで売っている見慣れない食材にもすごく興味があるから、日本で馴染みのある食品が手に入らなくても全然かまわない。

 

そんなだから、たぶん、よほどの僻地だったり発展途上国でなければ、どこでも暮らしていける。

 

そしてもうひとつ気づいたのが、どこの国も特別好きでも嫌いでもないということ。日本が最高とも、フィリピン大好きとも、オーストラリアがすばらしいとも思わない。かといって、それぞれの国が嫌いなわけでもない。つまりは、どこでもいい。

 

じゃあ何が大事なのかを考えたときに、自分にとって大事なものが見えてきた。続きはまた明日。

英語の上達を実感したいときにすべきこと

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公用語も母国語も英語のシドニーで生活をしていると、みんなが話す言葉は当然英語だ。それはそれは流暢にベラベラしゃべるわけで、わからないことばかり。まれに「あ、前よりスラッと言葉が出たかも」なんて思うことはあるけど、それよりも聞き取れなかったり、言いたいことが言えなかったり、落ち込むことの方が多い。

 

でも先日イタリアに旅行に行って、自分の英語力が確実に伸びていることが実感できた。

 

理由はおそらく3つある。

 

1つ目は、イタリアが英語圏ではないこと。お互い母国語でない、不得意な言語で話しているわけだから、難しい単語もなければ話すスピードもゆっくり。やたら巻き舌だったりするイタリア訛りはあったけど、こちらもジャパニーズアクセントなわけで、お互い様なのが安心感につながる。

 

2つ目は、いつも一緒に旅行をする友人との比較。今までは二人して「?」状態だったのが、今回はわたしだけ理解できている場面がたくさんあった。これは大きな自信になった。親愛なる友人よ、ありがとう。

 

3つ目は、過去の自分との比較。前に海外旅行をしたときに苦労したことが、なんなくできる。例えば、これまでは道がわからないときにその辺の人に聞くのは最終手段だったけど、今回は驚くほど気軽に聞けた。英語だけじゃなく、言葉の壁がある中でのコミュニケーションに慣れたことが最大の要因だと思う。

 

はたして自分の語学力は伸びているんだろうか、と不安に思うなら、やるべきことはレベルテストを受けることでも資格試験の点数を確認することでもない。英語がそれなりに通じる英語圏以外の国を訪れることだ。

「家族がいないからかわいそう」は傲慢だ

家族を幼い頃に亡くし、施設で育ったという男性に取材をした。周囲の人に笑ってもらうことが、楽しみながら自分の居場所を見つける唯一の手段だったと話す彼は、とても明るい人で、路上パフォーマーとして活動している。

 

施設で育ったから、家族がいないから、かわいそう。そんな考えを周りが勝手に抱くべきでは絶対にない。彼と話をしていて、そんなことを再確認した。

 

第一、自分の生まれ育った環境が、その人の”当たり前”だ。両親が恋人のように仲良しな家庭で育てばそれが本人のスタンダードになるし、逆もまたしかりだ。母子家庭や施設生活だって同じこと。一般的にみて普通じゃない育ち方をしていたって、本人にしてみればそれが普通だ。

 

それなのに、自分がいわゆる普通の家庭に育ったから、家族がいなくて施設で育った人のことをかわいそうだなんて、傲慢甚だしい。そりゃあ、「施設の生活がさみしくて布団の中で毎晩泣いていたんです」みたいな話を相手がしたならば、それはたしかにかわいそうかもしれない。でも、そういった話がない中で、「施設=かわいそう」「家族がいない=かわいそう」だなんて決め付けは絶対にしてはいけない。そんな失礼な話はない。

 

本人のことをよく見ずに、一般的なイメージだけで勝手にレッテルを張る。そんなことをする人にはなりたくないと心底思うけど、気をつけないとついやってしまう。歳を重ねるごとに、わかったつもりになりがちなことに対する自覚と危機感を忘れずに、いつまでもフラットに、柔軟な人でわたしはありたい。

「計画された偶発性理論」と「岡本太郎」

日本人の交流イベントで、ゲストスピーカーとして話をした。わたしなんぞが前に出て話すことなんて本当は何もないと思うけど、お誘いいただいたので引き受けた。今年の抱負は、来るものなるべく拒まず、だ。

 

当然上手に話せるわけもなく、緊張して固くなってしまったし、自分の出来なさに直面して落ち込んだわけなんだけれども、自分にとって大事な考え方がはっきりしたのは大きな収穫だった。

 

一つが「計画された偶発性理論」。ざっくり言ってしまうと、一生懸命頑張っていれば、計画されたような偶然が舞い込んで、人生がいい方向に進んで行く、という考え方。この考え方が大好きで、自分のこれまでを振り返っても、すごく納得がいく。

 

もう一つが、岡本太郎のエッセイ「自分の中に毒を持て」の中に出てきた、「複数の選択肢を前に悩んでいるなら、困難だと思う方を取れ」というもの。この考え方自体はよく言われることだし、特に珍しいものではない。わたしが好きなのは、その理由。

 

困難な選択肢なんて、本来真っ先に捨てられるものだ。なぜならば困難なことが目に見えているから。それなのにその選択肢と、その選択肢より簡単な選択肢を前に悩んでいるということは、困難な選択肢に惹かれているということにほかならない。だったら、どんなに困難であろうと、自分が一番グッときているその選択肢を取るのがいいに決まっている。

 

自分のことについてみんなの前で話をしてみて、この二つの考え方が、自分の思考のベースとなっていることがよくわかった。わすれないうちに明文化。

思った以上に日本人女性は簡単に外国人男性とセックスするらしい

台湾人とわたしともう一人の日本人でご飯に行った。その帰り道、その日本人の女友達の多くがオーストラリアにきてから外国人とセックスをしている、という話で盛り上がった。びっくりした。みんなそんなに外国人とセックスしてるのか。

 

わたしとその日本人は、外国人とのセックスは怖い派。相手の素性が知れないのは日本人でも外国人でも同じだけど、外国人の場合はコミュニケーションがしっかり取れないから、余計に相手のことが分からない。だから怖い。

 

彼女いわく、彼女の友人たちが外国人とセックスをしたのは、外国人への憧れかららしい。日本で簡単にセックスをするかというと、多分そんなことはないんじゃないか、というのが彼女の見解だ。

 

たぶん、ここが日本ではない、というのがポイントな気がしている。日本にいるときは日本の社会観念に従っていていたとしても、ここはオーストラリアだ。日本にいるときほど保守的になる必要はないし、多少羽目を外しても、ちょっとやそっとのことじゃ日本にいる友達や家族にはバレない。

 

前に日本人女性が簡単にヤレる理由は日本ではバカな女が好まれるからでは?というブログを書いたけど、女性側の外国人(西洋人)への憧れと、外国にいるから羽目を外してもOK!という意識も手伝っているんだろう。

 

fusachiko.hatenablog.com

 

わたしはあちこちで「日本人女性はすぐヤレる」みたいな話を聞くので、そんな簡単だと思われてたまるか!という反発心もあり、執拗なセックスの誘いを受けても幸い断れている。

 

fusachiko.hatenablog.com

 

今週のお題「恋バナ」