fusachikoの日記

会社を辞めて、外国へ。

イースター最大のイベント「Sydney Royal Easter Show」は規模がすごい

昨日の「Dodo Sydney Family Show 2017」に引き続き、今日はシドニーイースターのビッグイベント「Sydney Royal Easter Show」に行ってきた。農産業とエンターテインメントを融合させた酪農祭だ。チケットは1日券が40ドルくらいで、4時からのものが32ドル。夕方からで十分だろうということで、4時から会場入り。

 

オリンピックパークというシドニーオリンピックが開催されたときの競技場が揃う場所が会場となっていて、大きさはディズニーランドくらいの規模。さすがは広大な土地を持つオーストラリアで、こういうイベントの広さは桁違い。

 

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酪農祭と言うだけあって、動物のコーナーがたくさん。各動物のブースはそれぞれ大きめの体育館くらいのスペースがあって、そのぶん動物の数も多く、そのぶん臭い。羊のブースでは毛を刈るところを見れるショータイムがあって、寒そうな羊ともっさりした羊がわさわさいる。 

 

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 ニワトリのブースには、各種類のニワトリがゲージに入れられてずらり。何かのチャンピオンのニワトリは、たしかに王の佇まい。これぞ鳥貴族。他にたくさんのヒヨコや、孵化直前の卵が並べられていて、生まれたてのヒヨコが見れるコーナーも。

 

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小さい豚はとてもかわいい。

 

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動物ふれあいコーナー。人と動物が同じくらいいる。全動物が体育館一つ分くらいのスペースに放されていて、このへんの大雑把さと規模感はすごくオーストラリアっぽい。

 

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ふれあいコーナーの一角にいたあひるの子。小さい豚よりかわいい。

 

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アルパカコーナー。こんなかわいいのか。アルパカ。顔がちょっと間抜けなのが愛嬌あって愛らしい。かわいさランキングは1位あひる、2位アルパカ、3位小さい豚。

 

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夜になると、ライトアップにBGMがガンガン鳴って、ちょっとクラブみたいな雰囲気。コースターや観覧車、メリーゴラウンドに空中ブランコと、乗り物は一通り揃っているものの、チケットは別売り。物価の高さを痛感。

 

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不気味に擬人化されたバナナが下々を見下ろすチョコバナナ屋さんはさすが外国のセンス。怖い。こういう屋台があちこちに並んでいて、眺めて歩くのも楽しい。

 

他にウールワースという大手スーパーマーケット主催の巨大な食のブースに、アートやファッション、日用品、ガーデニングなど、物品も豊富な品揃え。全部ゆっくり見て回ろうと思ったら1日かかりそうなくらいのショップが軒を連ねる。

 

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 会場内のスタジアムではショーが見れる。わたしが見たのはバイクと車のアクロバットショー。写真中央の坂の上空でぶれているのがバイク。ぽんぽん飛んでた。

 

印象的だったのは周囲にいた子供達で、声援の送り方がすごい。飛び跳ねながら拳を振り、声を張り上げ、成功したときには絶叫する。有名な選手だったのか、それともこの国でモーターショー人気がすごいのか、そのあたりはよくわからないけれど、オーストラリアのスポーツ観戦好きな国民性を垣間見た気がした。(モーターショーをスポーツと言っていいのかはわからないけど、あのアクロバティックさはスポーツだと思う)

 

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最後は花火。スタジアムの中央からバンバン花火があがる。この写真はまだ上がりはじめでキレイだけど、この後間も無く煙が蔓延。爆風の中で上がる爆発音と瞬く光に、「戦争ってこんな感じなのかなぁ……」と思いを馳せることになった。年始プレイバック

自発的に仕事をすると、余計な仕事をしなくて済む

今の職場で、企画や編集に関係ない仕事の依頼をされることがほとんどない。請求書発行やメール返信なんかの細々した作業をボスが依頼するのは、全てもう一人の編集部員だ。最近ではほとんどボスのアシスタントと化している。

 

わたしにアシスタント的な業務が回ってこないのは、たぶん勝手にあれこれやっているからだ。勝手に何かをやってるからほっといても大丈夫だと思われて、あまり仕事の指示をされない。指示されたことをやっているわけではないから、わたしの正確な業務量をボスは把握していないし、なんならそれなりにやるべきタスクを持っていると判断される。「あれこれ」の中にはアナリティクスでの数字分析やPhotoshopでの画像加工なんかのボスができない分野の仕事も含まれているから、余計わたしが何をやっているかわからない。結果、誰にでもできる細々した業務は他の人に振ろうという考え方になる。

 

おかげで面倒なボスの事務処理代行をせずに済み、しかも自分がやりたい仕事に専念できている。ものすごく理想的な状態だ。自発的に仕事をすると、おもしろい仕事をする環境が作れるということを学んだ。

 

あとは単純に、事務処理をするアシスタントにものすごく向いていないから依頼されないだけという側面もたぶんある。依頼するたびに「これをやる意味は?」「この資料作る意味あります?」といちいちうるさいやつに、わたしなら仕事は頼まない。まぁ、自己主張は大切ってことで。

「相手の言いなりな編集者」は存在価値がまるでない

お客さんのやりたいことと、読者の読みたいものは必ずしも一致しない。そこを調整して、両者の希望が合致する落とし所を探すのが、記事広告を作成する際の編集者の一番と言っていいくらい大事な役割だ。

 

そもそもお客さんから言われるがまま記事を作成するのであれば編集者なんて存在はいらないわけで、編集者は読者の目線で企画し、文章をチェックし、読者が読みやすく、興味を引くように、まさに「編集」しなければいけない。その上で読者の興味を邪魔しないように、あるいはより興味を持ってもらえるように、お客さんが伝えたいことを組み込んでいく。

 

もちろん、お客さんが納得しないこともある。それを説得する(もしくは説得する材料を用意して営業に伝える)のも編集のものすごく大事な役割で、どうしてもお客さんが納得しないのであれば、「あなたが言う通りの記事を作ったら効果は出ない」ということを、事前にはっきりと伝える必要がある。変な記事を作らされた上に効果が出ないなんて言いがかりをつけられた日には目も当てられない。

 

多額の広告費を支払っているお客さんなのであれば、なおさら効果を出すために戦わなければいけないし、そこの労力を惜しんではいけない。機嫌を損ねるのを恐れて、妥協して言われるがままに記事を作るなんてことは絶対にあってはならないし、そんな態度は全くもって本質的ではない。お客さんのためを本当に考えたら、熱意を持って企画や文章の意図を伝えるべきだ。

 

相手の言いなりな編集者は、編集という仕事をなんだと思っているのだろう。たとえ嫌われ、疎まれても、わたしは編集者としての役割とプライドをまっとうしたい。

何もしてないのに「やりたいこと」だなんて片腹痛い

先日いっしょにビールを飲みにいった日本人男性に、なんだかイライラしてしまった。

 

彼はライティングの仕事がしたいと、未経験のインターンとしてウェブ記事を作っている。もともと全く別職種・別業界にいたけど、30歳を目前に、方向転換するなら今だと、会社をやめてオーストラリアに来たらしい。もっと遡ると、お笑い芸人になりたかったんだそうだ。

 

飲んでいる間、「もともとお笑い芸人になりたくて〜」「文章書くのが好きだからそっちの仕事をしたくて〜」とやりたいことについて話してくれるのだが、だんだん腹が立ってきた。彼が話すやりたいことは「やりたいこと」で止まっていて、そこに向かってこれといった行動を起こしているわけではない。

 

もしもライティングの仕事がしたいんだったら、1日数時間のインターンでは不十分だ。第一、文章を書くのが好きなら、書けばいい。いまの時代、ブログなんて一瞬で立ち上げられるし、そこから「おもしろい記事が書ける人」という実績ができて、仕事に繋がって……なんて可能性はゼロじゃない。素人が趣味でやっていたブログなりTwitterなりが有名になって、書籍化されることもめずらしくない。

 

しかもやりたいのはサッカーに関するライティングだそうだ。理由を聞いたら「海外のサッカー事情は日本にそこまで詳しい情報が入ってこないし、言いたいことがたくさんある」と。なおさら書けよ、サッカーブログを。

 

オーストラリアに来てまで、あれがやりたいこれがやりたいと、いい大人が言うだけで終わらせてどうしようというのだろうか。

折りたたみ傘を持ち歩く人はダサい

傘が嫌いで、日本にいるときは折りたたみ傘なんて持ってもいなかった。

 

fusachiko.hatenablog.com

 

今はむしろ折りたたみ傘しか持ってないから、ここ1カ月雨続きのシドニーで、折りたたみ傘の出番は必然的に増える。こっちで購入した、8ドルの赤い傘を見るたびに、高校生くらいの頃からずっと抱いている、「折りたたみ傘を持ち歩く人はダサい」という考えが頭をよぎる。

 

なんだか知らないけど、折りたたみ傘を持ち歩く人のことをダサいと思ってしまう。意中の相手がカバンに折りたたみ傘を忍ばせてることがわかった日には、「あぁ、折りたたみ傘を持ち歩くタイプの人なのか」と勝手にがっかりする。

 

デザインうんぬんの話ではなく、ダサさの原因は折りたたみ傘を持ち歩く理由だ。

 

確実に雨が降るであろうことがわかっているなら別にいい。どうしても濡らしてはいけない物を持っているから雨が降るかはわからないけど念のため折りたたみ傘を持ち歩く、みたいなケースに対しても特に何も思わない。「ふーん」だ。なぜならそこには必然性がある。

 

わたしがダサいと思うのは、「雨が降るかわからないけど、いつ降ってもいいように」という理由で折りたたみ傘を持ち歩く人だ。

 

カバンの中のそこそこの場所を折りたたみ傘で占めることになるわけで、最近では軽量のものもあるけど、それでもそれなりの重量もある。使うかどうかわからないそこそこの大きさのものを1日中カバンに入れて持ち歩いてまで、そこまでして雨に濡れたくないのか。降るかどうかもわからない雨に、そこまでして備える必要が果たしてあるのだろうか。たかが雨じゃないか。

 

そもそも雨が降ったら、そのときに対処法を考えればいい。多少の雨なら濡れたっていいし、濡れたくなければコンビニで傘を買うなりカフェで雨宿りをするなりすればいい。いざとなったらタクシーという手もある。

 

大げさな言い方になるけど、いつ降るかわからない雨に備えて折りたたみ傘を持ち歩く姿に、保守的な姿勢や柔軟性のなさを感じてしまう。惰性で持ち歩いてるとしか思えない。だからダサいし、なんとなく折りたたみ傘を持ち歩くタイプの人は仕事もできなさそうな気がしてしまう。

 

いったいなぜわたしは折りたたみ傘を持ち歩く人に対してこんな気持ちを抱くようになったのか。別に個人の勝手じゃないか、とツッコミを入れつつ、ダサいと思う気持ちが止められない。

外国人のボディタッチは激しい上に場所もすごい

「外国人はボディタッチが激しい」とはよく聞く話。たしかにあいさつがハグだったりほっぺをくっつけてのキスだったりするから、日本人と比べてボディタッチが激しいのは想像がつく。たぶんパーソナルスペースが日本人より狭いんだろう。

 

だから外国人の友達と接するときにボディタッチが多いのは想定の範囲内だった。けど、戸惑うのは男性の友達がタッチする場所だ。

 

頭をポンとされたり髪をサラッてされたり、背中に手を添えられたりするのは序の口で、胸の横というか脇の下というか、ブラジャーからはみ出た肉が気になるあの部分に横に座っている話し相手が「おいおい冗談だよ」みたいな感じでそっと触れてきたり、話しながら歩いているときに「ヘーイ!」みたいなノリでお腹をつついてきたりする。

 

しかもボーイフレンド感を出されるというか、なんだかいやらしさを感じるというか、実際彼らがどういうつもりなのかはわからないけど、基本的に下心を感じる触れ方だ。好きな相手なら嬉しいけど、友達にそういう触られ方はされたくない。

 

朝会ったときや別れ際に頬をつけて口でチュっていうあいさつには一向に慣れないし、男女問わず、あまり親しくない相手がぐっと近寄って肩を組んでくるのも居心地が悪い。よほど仲の良い相手でない限り、親密なスキンシップは好きじゃない。

 

それでも、こういうふれあいが多いのは素敵なことだと感じている。人と人が物理的に触れ合うことは安心感につながるし、親密さも増す。居心地の悪さを感じながらも、なんだか気持ちが温かくなる。

 

日本人が同じようなスキンシップをしたら気持ち悪いけど、もしも日本で一人暮らししていたときにこういう風に触れてくれる人が日常的にいたら、時々襲ってくる猛烈な孤独な気持ちは楽になったのかもな、と思う。

「日本語を話す日本人の見た目の人」が日本人とは限らない

 前にオーストラリア人が白人の見た目をしているとは限らないって話を書いた。

fusachiko.hatenablog.com

 

日本には「日本人の見た目じゃない日本人」がいないから、「アジア人の顔を持つオーストラリア人」というのがどうにも不思議な気がしてしまうけど、よく考えると日本にも見た目と国籍が一致しない人たちがいる。日本人みたいな外国人、いわゆる「在日」だ。

 

シドニーに来て、韓国語の名前を名乗る在日韓国人の子に会った。生まれ育ったのは日本で、日本語が母国語で、日本では日本名を使っていたという彼がオーストラリアで韓国語の名前を名乗る理由はわからないけど、少なくとも日本で韓国名を使ったら、不便が多そうなのは想像できる。

 

わたしの父の最初の記憶は「姉に手を引かれて防空壕に逃げ込む記憶」だそうで、要は戦時中の生まれだ。そんな父は、在日含む韓国人が大嫌いで、結婚相手に韓国人を連れてきたら許さないと宣言されたこともある。わたしには在日韓国人の友達がいるし、こうして外国で生活するなかで韓国人の友達もできた。だから父のこの意見は大嫌いだけど、喧嘩になるからだいたい途中で「この話やめよ!」と切り上げる。

 

反論を試みたことは何度かあるけど、どうやら韓国人を嫌うのは理屈じゃない。嫌な体験をしたことがあるのかどうかは知らないけど、凄惨な時代を生き抜いてくるなかで植え込まれた価値観なんじゃないかと思っている。たぶん、父の世代の一般的な価値観ではないか。

 

だから日本で在日韓国人の話が公に話される機会は少ないし、あったとしても否定的な話題が多い。でも、黒人をひとくくりに怖い人たちとまとめられないように、在日だからろくでもないなんて、絶対にひとまとめにしてはいけない。

fusachiko.hatenablog.com

 

父の世代の人たちが在日や韓国人へのイメージを変えることは限りなく不可能だと思うけど、わたしたち世代なら、先入観なく、きちんと自分の目で判断できるはず。そういう目を養うためにも、海外留学は若いうちにすべきだと思う。外国人だらけの海外で出会うアジア人への親近感は、それこそ理屈じゃない。

 

帰ったら「GO」を見よう。