fusachikoの日記

会社を辞めて、外国へ。

30歳の誕生日を一人で過ごして、自由と孤独は表裏一体であることを知った

独身で彼氏がおらず、家族や親戚も健康で元気。唯一わたしを縛っていた会社をやめたら、ものすごく自由になった。キリがいいところで仕事をやめたから未練はないし、ある程度の貯金もあったから金銭的な不自由もない。

 

「何でもできる!自由って最高!」くらいに、フィリピンにいたときは思っていた。気持ちが変わり始めたのは、オーストラリアに来てからだ。

 

シドニーに来た当初、知り合いは一人もいなかった。「この街に私のことを知ってる人は誰一人いないんだな」と思うと不思議だった。東京で生まれて東京で育って東京で生活していたわたしにとって、知らない街で生活すること自体が初めてだった。

 

到着して2週間後が30歳の誕生日だった。

 

シェアルームに住んでいたし、とりあえずで日本食レストランのバイトも始めていたから多少の知り合いはいたけど、誰もわたしの誕生日なんか知らないし、まだたいして親しくもない。お祝いしてよ〜なんて言える性格でもないから、メールやSNSのメッセージを除けば、誰からも「おめでとう」と言われることなく誕生日が終わった。とんでもなく孤独だった。

 

自由であるということは、言い換えれば人間関係に縛られない状態なわけで、自由度が上がれば上がるほど密な人間関係からは遠ざかる。今はネットさえつながればいくらでも連絡は取れるけど、顔を見て話せたとしても、やっぱり直接会うのとは全然違う。

 

そのことに気づいてから、自由に対しての考え方は変わった。わたしにはまだ自由であることの代償としての孤独を楽しめる度量がないことがよくわかったし、前みたいに単純に「自由最高!」なんて思えない。

 

「束縛」や「人間関係に縛られる」という言葉はネガティブな文脈で使われることが多いけど、縛られてもいいと思える関係性があるというのは、それはそれで素敵なことだ。「会いたい」と思う時点で、大げさに言えばその人との関係に縛られているわけで、そういう対象がいるということはとても幸せなこと。

 

「自分にとって快適な自由度」を意識してみれば、今後の幸せな生き方が見えてきそうだ。

「なんとなく不安」を解消するたった一つの方法

日本で働いていたとき、なんだか漠然と不安だった。仕事は好きだったし、やりがいも感じていたし、何でも話せて信頼できる友達がいて、家族とも仲が良く、大きな不満もない。なのに、なんとなく不安な気持ちを抱えていた。

 

心のどこかでいつも「いつまでこの会社で働くんだろう」という思いがあった。他の会社でも働いてみたいし、海外に 長期で住んでみたい。でも今の仕事好きだし、大きな不満があるわけじゃないし、まだやれることもある。それなのに、「このままでいいのか」という思いは消えなかった。ついでにいうと、この年代おなじみのプライベートのモヤモヤもあった。彼氏いないし、結婚も出産もしてみたいけど、できるのか?あぁもう私生活も仕事も、わたしの人生はどうなるんだろう……。そんなことを延々と、グルグルグルグル考えていた。

 

そんな常にまとわりついていた不安は、会社をやめることを決めてから、全部嘘みたいになくなった。本当にびっくりした。自分で決断して、やりたいことに従うと、こんなに楽になるのか。

 

岡本太郎が「自分の中に毒を持て」というエッセイの中で、「二つの選択肢で悩むのであれば、困難だと思う方を取れ」と書いていたことを思い出す。似たようなことを言う人はたくさんいるけれど、その理由に、当時のわたしの目からは鱗が100枚くらい落ちた。

 

「自分にとって簡単な選択肢を取るのが当たり前なのに、それを選んでいいのか悩むということは、もう一つの困難だと思っている選択肢に魅力を感じているということ。だったらそっちを取ればいい」

 

そしていざ「困難と思った選択肢」を選んでみて、つくづく岡本太郎の言っていることは正しいと思う。

 

本当にわたしは自分の仕事が好きだったけど、それ以上にやりたいと思っていたことは、会社をやめて海外に行くことだった。不安の原因は、やりたいことに蓋をして、変化を恐れて逃げ回って、「だって仕事が好きだから」と自分をごまかしていたことだった。ずっとまとわりついていた不安な気持ちは、本当にやりたいことに気づいて行動することで簡単に消えるものだった。

 

会社をやめて外国に行く。一般的に見たら不安な人生を歩んでいるように見えるだろうし、もやもやしていた当時のわたしもそう思っていたけれど、いざやってみると不安なんてまるでない。そこにあるのは、自分の人生に対する圧倒的な納得感だ。 

 

自分の中に毒を持て―あなたは“常識人間

自分の中に毒を持て―あなたは“常識人間"を捨てられるか (青春文庫)

 

イースター最大のイベント「Sydney Royal Easter Show」は規模がすごい

昨日の「Dodo Sydney Family Show 2017」に引き続き、今日はシドニーイースターのビッグイベント「Sydney Royal Easter Show」に行ってきた。農産業とエンターテインメントを融合させた酪農祭だ。チケットは1日券が40ドルくらいで、4時からのものが32ドル。夕方からで十分だろうということで、4時から会場入り。

 

オリンピックパークというシドニーオリンピックが開催されたときの競技場が揃う場所が会場となっていて、大きさはディズニーランドくらいの規模。さすがは広大な土地を持つオーストラリアで、こういうイベントの広さは桁違い。

 

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酪農祭と言うだけあって、動物のコーナーがたくさん。各動物のブースはそれぞれ大きめの体育館くらいのスペースがあって、そのぶん動物の数も多く、そのぶん臭い。羊のブースでは毛を刈るところを見れるショータイムがあって、寒そうな羊ともっさりした羊がわさわさいる。 

 

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 ニワトリのブースには、各種類のニワトリがゲージに入れられてずらり。何かのチャンピオンのニワトリは、たしかに王の佇まい。これぞ鳥貴族。他にたくさんのヒヨコや、孵化直前の卵が並べられていて、生まれたてのヒヨコが見れるコーナーも。

 

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小さい豚はとてもかわいい。

 

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動物ふれあいコーナー。人と動物が同じくらいいる。全動物が体育館一つ分くらいのスペースに放されていて、このへんの大雑把さと規模感はすごくオーストラリアっぽい。

 

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ふれあいコーナーの一角にいたあひるの子。小さい豚よりかわいい。

 

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アルパカコーナー。こんなかわいいのか。アルパカ。顔がちょっと間抜けなのが愛嬌あって愛らしい。かわいさランキングは1位あひる、2位アルパカ、3位小さい豚。

 

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夜になると、ライトアップにBGMがガンガン鳴って、ちょっとクラブみたいな雰囲気。コースターや観覧車、メリーゴラウンドに空中ブランコと、乗り物は一通り揃っているものの、チケットは別売り。物価の高さを痛感。

 

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不気味に擬人化されたバナナが下々を見下ろすチョコバナナ屋さんはさすが外国のセンス。怖い。こういう屋台があちこちに並んでいて、眺めて歩くのも楽しい。

 

他にウールワースという大手スーパーマーケット主催の巨大な食のブースに、アートやファッション、日用品、ガーデニングなど、物品も豊富な品揃え。全部ゆっくり見て回ろうと思ったら1日かかりそうなくらいのショップが軒を連ねる。

 

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 会場内のスタジアムではショーが見れる。わたしが見たのはバイクと車のアクロバットショー。写真中央の坂の上空でぶれているのがバイク。ぽんぽん飛んでた。

 

印象的だったのは周囲にいた子供達で、声援の送り方がすごい。飛び跳ねながら拳を振り、声を張り上げ、成功したときには絶叫する。有名な選手だったのか、それともこの国でモーターショー人気がすごいのか、そのあたりはよくわからないけれど、オーストラリアのスポーツ観戦好きな国民性を垣間見た気がした。(モーターショーをスポーツと言っていいのかはわからないけど、あのアクロバティックさはスポーツだと思う)

 

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最後は花火。スタジアムの中央からバンバン花火があがる。この写真はまだ上がりはじめでキレイだけど、この後間も無く煙が蔓延。爆風の中で上がる爆発音と瞬く光に、「戦争ってこんな感じなのかなぁ……」と思いを馳せることになった。年始プレイバック

自発的に仕事をすると、余計な仕事をしなくて済む

今の職場で、企画や編集に関係ない仕事の依頼をされることがほとんどない。請求書発行やメール返信なんかの細々した作業をボスが依頼するのは、全てもう一人の編集部員だ。最近ではほとんどボスのアシスタントと化している。

 

わたしにアシスタント的な業務が回ってこないのは、たぶん勝手にあれこれやっているからだ。勝手に何かをやってるからほっといても大丈夫だと思われて、あまり仕事の指示をされない。指示されたことをやっているわけではないから、わたしの正確な業務量をボスは把握していないし、なんならそれなりにやるべきタスクを持っていると判断される。「あれこれ」の中にはアナリティクスでの数字分析やPhotoshopでの画像加工なんかのボスができない分野の仕事も含まれているから、余計わたしが何をやっているかわからない。結果、誰にでもできる細々した業務は他の人に振ろうという考え方になる。

 

おかげで面倒なボスの事務処理代行をせずに済み、しかも自分がやりたい仕事に専念できている。ものすごく理想的な状態だ。自発的に仕事をすると、おもしろい仕事をする環境が作れるということを学んだ。

 

あとは単純に、事務処理をするアシスタントにものすごく向いていないから依頼されないだけという側面もたぶんある。依頼するたびに「これをやる意味は?」「この資料作る意味あります?」といちいちうるさいやつに、わたしなら仕事は頼まない。まぁ、自己主張は大切ってことで。

「相手の言いなりな編集者」は存在価値がまるでない

お客さんのやりたいことと、読者の読みたいものは必ずしも一致しない。そこを調整して、両者の希望が合致する落とし所を探すのが、記事広告を作成する際の編集者の一番と言っていいくらい大事な役割だ。

 

そもそもお客さんから言われるがまま記事を作成するのであれば編集者なんて存在はいらないわけで、編集者は読者の目線で企画し、文章をチェックし、読者が読みやすく、興味を引くように、まさに「編集」しなければいけない。その上で読者の興味を邪魔しないように、あるいはより興味を持ってもらえるように、お客さんが伝えたいことを組み込んでいく。

 

もちろん、お客さんが納得しないこともある。それを説得する(もしくは説得する材料を用意して営業に伝える)のも編集のものすごく大事な役割で、どうしてもお客さんが納得しないのであれば、「あなたが言う通りの記事を作ったら効果は出ない」ということを、事前にはっきりと伝える必要がある。変な記事を作らされた上に効果が出ないなんて言いがかりをつけられた日には目も当てられない。

 

多額の広告費を支払っているお客さんなのであれば、なおさら効果を出すために戦わなければいけないし、そこの労力を惜しんではいけない。機嫌を損ねるのを恐れて、妥協して言われるがままに記事を作るなんてことは絶対にあってはならないし、そんな態度は全くもって本質的ではない。お客さんのためを本当に考えたら、熱意を持って企画や文章の意図を伝えるべきだ。

 

相手の言いなりな編集者は、編集という仕事をなんだと思っているのだろう。たとえ嫌われ、疎まれても、わたしは編集者としての役割とプライドをまっとうしたい。

何もしてないのに「やりたいこと」だなんて片腹痛い

先日いっしょにビールを飲みにいった日本人男性に、なんだかイライラしてしまった。

 

彼はライティングの仕事がしたいと、未経験のインターンとしてウェブ記事を作っている。もともと全く別職種・別業界にいたけど、30歳を目前に、方向転換するなら今だと、会社をやめてオーストラリアに来たらしい。もっと遡ると、お笑い芸人になりたかったんだそうだ。

 

飲んでいる間、「もともとお笑い芸人になりたくて〜」「文章書くのが好きだからそっちの仕事をしたくて〜」とやりたいことについて話してくれるのだが、だんだん腹が立ってきた。彼が話すやりたいことは「やりたいこと」で止まっていて、そこに向かってこれといった行動を起こしているわけではない。

 

もしもライティングの仕事がしたいんだったら、1日数時間のインターンでは不十分だ。第一、文章を書くのが好きなら、書けばいい。いまの時代、ブログなんて一瞬で立ち上げられるし、そこから「おもしろい記事が書ける人」という実績ができて、仕事に繋がって……なんて可能性はゼロじゃない。素人が趣味でやっていたブログなりTwitterなりが有名になって、書籍化されることもめずらしくない。

 

しかもやりたいのはサッカーに関するライティングだそうだ。理由を聞いたら「海外のサッカー事情は日本にそこまで詳しい情報が入ってこないし、言いたいことがたくさんある」と。なおさら書けよ、サッカーブログを。

 

オーストラリアに来てまで、あれがやりたいこれがやりたいと、いい大人が言うだけで終わらせてどうしようというのだろうか。

折りたたみ傘を持ち歩く人はダサい

傘が嫌いで、日本にいるときは折りたたみ傘なんて持ってもいなかった。

 

fusachiko.hatenablog.com

 

今はむしろ折りたたみ傘しか持ってないから、ここ1カ月雨続きのシドニーで、折りたたみ傘の出番は必然的に増える。こっちで購入した、8ドルの赤い傘を見るたびに、高校生くらいの頃からずっと抱いている、「折りたたみ傘を持ち歩く人はダサい」という考えが頭をよぎる。

 

なんだか知らないけど、折りたたみ傘を持ち歩く人のことをダサいと思ってしまう。意中の相手がカバンに折りたたみ傘を忍ばせてることがわかった日には、「あぁ、折りたたみ傘を持ち歩くタイプの人なのか」と勝手にがっかりする。

 

デザインうんぬんの話ではなく、ダサさの原因は折りたたみ傘を持ち歩く理由だ。

 

確実に雨が降るであろうことがわかっているなら別にいい。どうしても濡らしてはいけない物を持っているから雨が降るかはわからないけど念のため折りたたみ傘を持ち歩く、みたいなケースに対しても特に何も思わない。「ふーん」だ。なぜならそこには必然性がある。

 

わたしがダサいと思うのは、「雨が降るかわからないけど、いつ降ってもいいように」という理由で折りたたみ傘を持ち歩く人だ。

 

カバンの中のそこそこの場所を折りたたみ傘で占めることになるわけで、最近では軽量のものもあるけど、それでもそれなりの重量もある。使うかどうかわからないそこそこの大きさのものを1日中カバンに入れて持ち歩いてまで、そこまでして雨に濡れたくないのか。降るかどうかもわからない雨に、そこまでして備える必要が果たしてあるのだろうか。たかが雨じゃないか。

 

そもそも雨が降ったら、そのときに対処法を考えればいい。多少の雨なら濡れたっていいし、濡れたくなければコンビニで傘を買うなりカフェで雨宿りをするなりすればいい。いざとなったらタクシーという手もある。

 

大げさな言い方になるけど、いつ降るかわからない雨に備えて折りたたみ傘を持ち歩く姿に、保守的な姿勢や柔軟性のなさを感じてしまう。惰性で持ち歩いてるとしか思えない。だからダサいし、なんとなく折りたたみ傘を持ち歩くタイプの人は仕事もできなさそうな気がしてしまう。

 

いったいなぜわたしは折りたたみ傘を持ち歩く人に対してこんな気持ちを抱くようになったのか。別に個人の勝手じゃないか、とツッコミを入れつつ、ダサいと思う気持ちが止められない。