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fusachikoの日記

会社を辞めて、外国へ。

英語で見るディズニー映画には新しい発見がある

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よく図書館でDVDを借りて、英語字幕をつけて見ている。中でもディズニー映画は子供の頃からよく見ていたから、内容を知っているぶん英語の理解がしやすいし、何より楽しい。何度も見ている慣れ親しんだディズニー映画だけど、英語で見るといろいろと発見がある。

 

例えば今借りている「美女と野獣」の主人公・ベルの英語表記はBelle。冒頭のミュージカルシーンで「彼女の名前はbeautyという意味」というくだりがあって、調べてみたらフランス語で「美しい」という意味だった。なるほど、タイトルの「美女」が名前になっていたのか。

 

あと、日本語吹き替えで見ていたときは、たしかベルは野獣のことを「あなた」とか「彼」と言っていて、少なくとも固有名詞で呼びかけることはなかった。でも英語版では、野獣のことをBeastと呼んでいる。たしかに吹き替えで「野獣」って呼びかけてたら変だ。

 

何度も繰り返し借りては見ている「アナと雪の女王」は、英語版と日本語吹き替え版では受ける印象が異なる。「ありの〜ままの〜」と高らかに松たか子が歌う「Let It Go」からは、力を制御することから解放されたエルサが自分らしく生きようという前向きなメッセージを感じるけど、英語版は「もう知ーらないっ!」という雰囲気で、もっとやけっぱちな印象だ。

 

「ラプンツェル」は吹き替えで1回しか見たことがないから比較はできないけど、そもそもタイトルが「Tangled」と全くことなる。「絡まる、もつれる」といった意味を知れば納得だけど、ディズニー映画の話をしていて「My favorite is Tangled」と言われた時はポカーンだった。

 

内容は英語でも日本語でも同じだけど、日本語にとって自然な表現や尺を考慮して訳しているから、英語でみると細かい部分で意味合いが違うことがよくある。全部を理解できるほどの英語力があるわけじゃないからこそ、繰り返し見ることで「あ、これ違う!」という発見があるし、だんだんと台詞が耳に馴染んでくる過程が楽しいから、飽きもせず何度も何度も毎晩見ている。シドニーで気づいた、思わぬ楽しみ。

30歳の誕生日を一人で過ごして、自由と孤独は表裏一体であることを知った

独身で彼氏がおらず、家族や親戚も健康で元気。唯一わたしを縛っていた会社をやめたら、ものすごく自由になった。キリがいいところで仕事をやめたから未練はないし、ある程度の貯金もあったから金銭的な不自由もない。

 

「何でもできる!自由って最高!」くらいに、フィリピンにいたときは思っていた。気持ちが変わり始めたのは、オーストラリアに来てからだ。

 

シドニーに来た当初、知り合いは一人もいなかった。「この街に私のことを知ってる人は誰一人いないんだな」と思うと不思議だった。東京で生まれて東京で育って東京で生活していたわたしにとって、知らない街で生活すること自体が初めてだった。

 

到着して2週間後が30歳の誕生日だった。

 

シェアルームに住んでいたし、とりあえずで日本食レストランのバイトも始めていたから多少の知り合いはいたけど、誰もわたしの誕生日なんか知らないし、まだたいして親しくもない。お祝いしてよ〜なんて言える性格でもないから、メールやSNSのメッセージを除けば、誰からも「おめでとう」と言われることなく誕生日が終わった。とんでもなく孤独だった。

 

自由であるということは、言い換えれば人間関係に縛られない状態なわけで、自由度が上がれば上がるほど密な人間関係からは遠ざかる。今はネットさえつながればいくらでも連絡は取れるけど、顔を見て話せたとしても、やっぱり直接会うのとは全然違う。

 

そのことに気づいてから、自由に対しての考え方は変わった。わたしにはまだ自由であることの代償としての孤独を楽しめる度量がないことがよくわかったし、前みたいに単純に「自由最高!」なんて思えない。

 

「束縛」や「人間関係に縛られる」という言葉はネガティブな文脈で使われることが多いけど、縛られてもいいと思える関係性があるというのは、それはそれで素敵なことだ。「会いたい」と思う時点で、大げさに言えばその人との関係に縛られているわけで、そういう対象がいるということはとても幸せなこと。

 

「自分にとって快適な自由度」を意識してみれば、今後の幸せな生き方が見えてきそうだ。

存在感がすごいオーストラリアのバス運転手

バスでの移動中に止まった停留所で、満席の車内におばあさんが乗ってきた。わたしが座っていたのは段差の高い先頭の一人席で、どう考えても足の悪いおばあさんに譲るには向いていない。

 

これまでに公共機関で子連れの親子やお年寄りに席を譲る人を何度か見たことがあったから、きっと誰かが席を立つだろうと様子を見ていると、バスの男性運転手が叫んだ。

 

「誰が席を譲ってあげて!」

 

声かけに応じて、乗客の一人が席を譲り、おばあさんは無事席に座れた。

 

また別のときに乗った始発のバスでは、始発ゆえに乗り込む人が多く、OPALカードという日本でいうSUICAをタッチする機械で人が滞っていた。するとバスの女性運転手が叫んだ。

 

「タップする機械、他にもあるからそっちも使って!」

※こっちではタッチではなくタップという

 

バスにマイクはないから、どちらの運転手も地声。双方ともガタイが良かったことも相まってなかなかの迫力だったけど、バスを仕切るのは運転手だ。横柄なのは嫌だけど、それが乗客のためならば、このくらい存在感があっていいじゃないか。

 

もちろん日本のバスにも気の利いた運転手はいるし、オーストラリアの全運転手がこうではないけれど、オーストラリアの方が運転手と乗客の関係が対等な気がしている。サービス業全般に言えることだけど、日本は「お客さまは神様」精神を、サービス提供側も消費者も見直した方がいいのではないか。

 

もちろん精神として持っていることが日本のすばらしいホスピタリティに繋がるのだろうけど、もらった金額に対してのサービスをするのが本来であるはずなのに、「お客さまは神様だから」と、値段からかけ離れた過剰なサービスをしていることがあまりにも多い。

 

一方の個人の消費者も、「お客さまは神様」という大義名分を笠に着て、本来はサービスであったはずの過剰なサービスを当たり前のように受け止めている。これではサービス提供側が気の毒だし、消費者にとってもハードルが上がるばかりでちょっとやそっとじゃ満足がいかなくなる。両者にとって窮屈だし、不幸でしかない。

 

「安くてサービスが良い」「安くて品質が良い 」というのは本来付加価値であって、当たり前ではない。印象的だったバスの話を書こうと思ってすっかり脱線してしまったけど、たまには勢いで書くのもいいだろうということでご愛嬌。

 

fusachiko.hatenablog.com

 

 

丘の上の灯台に向かう岩から見るパームビーチが爽快

シドニーの週末はあちこちで野外マーケットが開かれる。毎週行われるものもあれば月1開催のものもあり、今日は毎月第4日曜日に開かれる「Palm Beach Market」に行ってきた。シドニー市内からバスで 1時間半。

 

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 こじんまりとしていて、リラックスムード漂うマーケット。サクッと見終わるし市内のマーケットとそんなに置いてるものが異なるわけでもないから、わざわざ行かなくてもいいけど、パームビーチに行くついでに立ち寄る分には楽しい。

 

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「Asian American Eater」みたいな名前のお店のチキンラップがおいしかった。マリネしてある人参が存在感あってシャキシャキで、コリアンダーとハラペーニョがいいアクセント。こういう洋風の食べ物にネギが散らしてあるのって、日本人の感覚からするとなんだか不思議。9.50ドルと、物価高のシドニーでは良心的なお値段。

 

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パームビーチはこんな形で、両サイドにビーチがある。丘の上に登れば両ビーチが見渡せるということで、せっせと登ってきた。階段なら400メートル、普通の道なら800メートルの行程で、階段嫌いの私は800メートルを選択。

 

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左上の赤いのが灯台。自然が豊かなオーストラリアでは野山を歩くアクティビティ「ブッシュウォーク」の人気が高く、道中はなかなか急な上り坂だったけど、子供から初老の方までちょっとした山歩きをエンジョイしていた。

 

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そして上から見える景色がこちら。左側のビーチは波が高く、サーフィンや海遊び、ビーチ沿いでのんびりする人が集まる。一方の右側のビーチは、穏やかな凪の海。同じところから見える海でも、陸を隔てて全然違う。

 

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灯台手前の道沿いにはたくさんの岩。適当な岩に腰掛けて、ぼーっと海を眺める。目の前を遮るものはなにもなく、汗ばんだ体に風が心地良い。どうにか高いところにいることを証明できる写真は撮れないものかとあれこれやっていると、通りすがりの女の子が「写真撮ってあげようか」と声をかけてくれた。わたしもこういう親切心を見習おう。

ヒールがつらいなら裸足で歩けばいいじゃない

こないだ夜10時くらいに最寄駅のコンコースを歩いていたら、前方にいたお姉さんが彼氏らしき人の肩を借りながらヒールの靴を脱いで、そのまま裸足で歩き始めた。しかも靴を持つのは彼氏だ。これもきっとジェントルマンの所作のひとつ。

 

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オーストラリアには、裸足で歩いている人がちょこちょこいる。ホームレスやヒッピーなんかの裸足で歩いていそうな人以外の、いわゆる普通っぽい人であっても、裸足でスタスタ歩いていたりする。だからこのお姉さんにとって、裸足で歩くことはたぶんそんなにおかしなことじゃない。

 

25歳くらいのとき、昼からはしご酒で浅草から淡路町まで歩き回ったことがある。そのときわたしはかなり高いヒールの靴を履いていて、みんなでいるときはどうにか見栄を張って何食わぬ顔をしていたものの、解散後一人になった瞬間にたまらず靴を脱いだ。足の痛みが限界だった。

 

裸足のまま地下歩道を丸ノ内線に向かって歩いたけれど、そのときの周囲の目は、完全に変な人を見る目だった。酔っ払っていたから開き直って歩き続けたものの、「裸足で歩くとこういう風に見られるんだなぁ」というのを、印象的に覚えている。

 

別に裸足で歩ける街を賞賛するわけではないけれど、ヒールを持って歩いていたら「あぁ足が痛いんだな」と想像はつく。だったら暖かく見守ってあげればいいじゃないか。

 

ヒールを脱いで歩く人を変な目で見ないオーストラリアの懐の深さは、きっと多国籍国家ゆえに培われたもの。日本がこうはならないだろうけど、この手の懐の深さを持った人になりたいなぁと思う。

政治家が「祝日に働いている人」をねぎらうオーストラリア

先週はイースターホリデーで4連休。休み明けに見たニュースに、ハッとした。

 

野党のショーテン党首もまた、自然災害の被害を受けた住民らにとって、困難な時が続いたとした上で、イースター期間中も任務に当たっている国防軍の隊員らに感謝と慰労の言葉を贈った。さらに同党首は、「祝日に働いている一般市民」にも敬意を表し、祝日手当の削減は妥当ではないと、政府に対する皮肉で締めくくった。 

(引用元:JAMS.TV

 

たとえ政治的なアピールとしての発言だとしても、すばらしいと思った。少なくともわたしは日本の政治家が祝日に働いている人をねぎらう発言を聞いたことがない。

 

オーストラリアは余暇を大事にする国で、定時で帰り、2〜3週間で休みをとるのは当たり前。飛び石連休の間の平日に病気を装う人が続出し、1月の飛び石連休時には「18万人が仮病で休むことが予測されている」というニュースが在豪日本人の間でアンビリーバボーでクレイジーだと話題になった。土日祝日に働く場合の手当もしっかりあって、給与がどかんと跳ね上がる。

 

休日も夜中もお店やサービスが利用できることを当たり前のように感じているけど、その裏側にはみんなが休んでいるときに働いている人がいるということ。それを当たり前だと思わずに、感謝の気持ちを持つ。みんながそういう意識を持てたら、日本の働く環境や生活スタイルはずいぶん変わるのではなかろうか。

 

「なんとなく不安」を解消するたった一つの方法

日本で働いていたとき、なんだか漠然と不安だった。仕事は好きだったし、やりがいも感じていたし、何でも話せて信頼できる友達がいて、家族とも仲が良く、大きな不満もない。なのに、なんとなく不安な気持ちを抱えていた。

 

心のどこかでいつも「いつまでこの会社で働くんだろう」という思いがあった。他の会社でも働いてみたいし、海外に 長期で住んでみたい。でも今の仕事好きだし、大きな不満があるわけじゃないし、まだやれることもある。それなのに、「このままでいいのか」という思いは消えなかった。ついでにいうと、この年代おなじみのプライベートのモヤモヤもあった。彼氏いないし、結婚も出産もしてみたいけど、できるのか?あぁもう私生活も仕事も、わたしの人生はどうなるんだろう……。そんなことを延々と、グルグルグルグル考えていた。

 

そんな常にまとわりついていた不安は、会社をやめることを決めてから、全部嘘みたいになくなった。本当にびっくりした。自分で決断して、やりたいことに従うと、こんなに楽になるのか。

 

岡本太郎が「自分の中に毒を持て」というエッセイの中で、「二つの選択肢で悩むのであれば、困難だと思う方を取れ」と書いていたことを思い出す。似たようなことを言う人はたくさんいるけれど、その理由に、当時のわたしの目からは鱗が100枚くらい落ちた。

 

「自分にとって簡単な選択肢を取るのが当たり前なのに、それを選んでいいのか悩むということは、もう一つの困難だと思っている選択肢に魅力を感じているということ。だったらそっちを取ればいい」

 

そしていざ「困難と思った選択肢」を選んでみて、つくづく岡本太郎の言っていることは正しいと思う。

 

本当にわたしは自分の仕事が好きだったけど、それ以上にやりたいと思っていたことは、会社をやめて海外に行くことだった。不安の原因は、やりたいことに蓋をして、変化を恐れて逃げ回って、「だって仕事が好きだから」と自分をごまかしていたことだった。ずっとまとわりついていた不安な気持ちは、本当にやりたいことに気づいて行動することで簡単に消えるものだった。

 

会社をやめて外国に行く。一般的に見たら不安な人生を歩んでいるように見えるだろうし、もやもやしていた当時のわたしもそう思っていたけれど、いざやってみると不安なんてまるでない。そこにあるのは、自分の人生に対する圧倒的な納得感だ。 

 

自分の中に毒を持て―あなたは“常識人間

自分の中に毒を持て―あなたは“常識人間"を捨てられるか (青春文庫)