fusachikoの日記

会社を辞めて、外国へ。

受身だからこそ大事な「誘われたら行く」のスタンス

とりあえず誘われたら行ってみる、というスタンスは、受身なようで案外重要な姿勢なのではないかという気がしている。

 

どんなに乗り気でなかろうと、集まる人たちに興味がなかろうと、行ってみれば新しい発見があるものだ。自分で交流を持ちたい人を集めたわけでもなければ、行きたいから行くという積極性があるわけでもないからこそ、予想外の何かが得れる可能性が高い。

 

積極性が重視される世の中だけど、受身だからこその偶然性というものもあなどってはいけない。

自分が話すことで引き出せる話もある

「いかに相手の話を引き出せるかが、インタビューの極意である」という話はよく聞くし、わたしも全面的に同意だ。どんなに優秀なライターと編集者の組み合わせであっても、原稿の素材となる取材がつまらなければ、掲載記事の出来もしれている。

 

つまり、いかに取材時に面白い話を聞けるかが肝となる。取材時間は限られているわけだから、どれだけ相手にしゃべってもらえるかがポイントになりそうなものだが、自分が話すことで引き出せる話がある、ということを忘れてはならない。

 

たとえば、「オーストラリアにきて好きになった食べ物はなんですか?」という質問。この問いかけだけだと、相手は「オーストラリア特有の食べ物の話を求められているのかな」と思ってしまいがちだ。

 

でもわたしの質問の意図は、「オーストラリアで食べて美味しかった食べ物はなんですか?」だったりする。だったら、自分がオーストラリアにきて食べて美味しかった食べ物の話をすれば手っ取り早い。「それがおいしかったのなら、これがオススメ」、「◯◯と言われて思い出したけど、そういえばアレがおいしいわ」など、こちらから実例を出すことで引き出せる話はたくさんある。

 

いかに相手にしゃべらせるかがインタビューのポイントなんて言われるけれど、案外予想外の話が聞けるのは自分がしゃべったときだったりする。インタビューする側が話すぎるのはよくないけれど、全く話さないのもまたよろしくない。

フリーライターを経験して、これまでの仕事の仕方を反省した

フリーライターとして仕事をしてみて、これまでの仕事のやり方を猛烈に反省した。

 

これまで編集者として媒体運営をしていたわたしは、長らく外注する側の人間だった。

 

正直に言うと、ライターさんのレベルは天から地まである。ほぼ修正なしで掲載できるすばらしい原稿を書く人もいれば、思わず未完成なんじゃないかと疑ってしまうクオリティの原稿を送ってくる人もいる。

 

今回わたしが反省したのは、その中間のライターさんに対する自分の対応だ。悪くはないし、しっかり仕上げてくれているけど、全体の雰囲気が媒体のテイストに合わなかったり、書いてほしい情報が入っていなかったりする原稿を、わたしは容赦なく加筆・修正しまくっていた。

 

もちろん手間はかかるけど、ベースとなる原稿がある分、一から自分で書くよりも格段に楽だ。だから修正の必要がある原稿であっても、ライターさんの存在はわたしにとってとてもありがたいものだった。それに、修正の依頼をするよりも、自分で原稿に手を加える方が早いし、相手の負担も軽くて済む。そう思っていた。

 

だが、自分がライター側の立場で仕事をしてみて、過去のわたしがいかにライターさんの気持ちがわかっていなかったのかを知った。

 

自分の原稿を修正されるのは、思った以上に気分のいいことではなかった。修正箇所が多ければ多いほど、「あなたの原稿は全然ダメ!」と言われている気分になる。この気持ちは、メールでどんなに丁寧に修正意図を補足しようと、原稿を依頼する際の説明不足をお詫びしても、カバーしきれるものではない。

 

まだフリーライターとして仕事を始めたばかりだから、原稿を直されることに慣れてない部分はあるにしても、ライターとしてのプロ意識やプライドをしっかり持っている人ほど、わたしの対応を不快に思ったに違いない。

 

これでよし!という気持ちとともにライターさんは原稿を送ってきてくれていたはずなのに、それぞれの考えがあっての原稿だったはずなのに、わたしは彼ら、彼女らの気持ちも考えも全部無視してしまっていた。

 

企画の意図をしっかり踏まえて、媒体のカラーを汲み取って、そうして原稿を仕上げるのがプロのライターだ。

 

でも一方で、企画意図はもちろんのこと、媒体の特性や原稿の仕上がりの雰囲気を相手がイメージできるように伝えるのが編集者の仕事だ。今振り返れば、わたしの仕事の依頼の仕方が十分だったとは思えない。

 

それなのに、時に「なんでこんな原稿を送ってきたんだろう」なんて不満を言うことすらあった。当時の自分に言ってやりたい。お前の説明不足だよ、と。

 

 

メルボルンのスキンケアショップ店員の営業力が異常

年末に訪れたメルボルンで、ショッピングモールの地下を歩いていたら、「あなたのネックレスすてきね!」と、美容系のショップ店員と思わしきお姉さんに突然声をかけられた。

 

面食らったけれども、メルボルンの人はシドニーよりもフレンドリーだと聞いていたし、屋台じゃなくてちゃんとしたショッピングモールだったので、足を止めて「センキュー」と答えた。するとお姉さんは「どこで買ったの?」、「高い?」「メルボルンには旅行で来てるの?」と、矢継ぎ早に質問を投げかけてくる。そしてわたしが日本人だということがわかると「わたし日本大好きなの!」と抱きついてきた。もちろん、初対面だ。

 

かなりびっくりしてしまったが、悪い印象はない。だから「紹介したいものがあるの!ちょっとここに座って」とお姉さんに言われるがまま、一人旅で特にやることも決まっていなかったわたしは椅子に座った。

 

するとお姉さんはスキンケア商品を紹介し始めた。わたしの手にクリームやらなんやらを塗りたくり、「これ、すっごくいいでしょう?オーガニックなのよ」とあれこれ説明をしてくれる。要は営業だ。

 

「あ、ちょっとめんどうくさいな」と思ったけど、わたしはいらないものはいらないと断れるタイプだという自負もあったので、お姉さんのやりたいように身を任せていた。

 

そしてついに値段の話が始まった。たしかに商品自体は良さそうだなと思ったけど、スキンケアは間に合っている。だから「いらない」と言った。そこからがすごかった。ガンガン攻めてくる。

 

「この間買ったばかりだから」

→「でもそれ、オーガニックじゃないでしょう?これは100%オーガニックのすばらしいマヌカハニーでできたアメイジングな商品だから、全然違うのよ!」

→(たしかに良さそうな商品なんだよな・・・。買ったばかりっていうのも嘘だし・・・)

 

「高い」

→「わたしはあなたのこと好きだから、特別にハーフプライスでいいわ!本当は180ドルだけど、90ドルにしてあげる!」

→(安いし、値引きの理由が「あなたのこと好きだから」って悪い気がしないぞ・・・)

 

そして、90ドルの金額をベースに1日あたりの費用を計算し始め、「たったこれだけよ?」とクロージング。どう断ったものか考えながら「うーん」とかなんとか言っているわたしに、ひたすら商品のすばらしさを「アメイジング!」を多用しながら訴えてくる。

 

なまじ商品を良さそうだと思っていたためにお値打ち感に揺らぎ、お姉さんへの好感度も相まって、最終的には買ってしまった。全然買うつもりなかったのに。

 

購入後も「えーあなた30歳なの!?嘘でしょう?証拠にID見せて!」とお店を去るまでお姉さんはフレンドリー。そうして買い物を終えて宿へと戻る道、なんだか猛烈に感動してしまった。

 

こういう接客の仕方は、たぶん日本ではありえない。そもそも日本人は、初対面のお客さんに絶対にハグなんかしないし、「あなたのこと好きだから半額」なんてうさんくさすぎる。なにより、いらないと断った顧客に対してここまでゴリゴリに攻める店員が相当レアだ。

 

このお姉さんのすばらしかったポイントは2つあって、1つが、本当に良い商品であると信じてプレゼンしていたこと。2つ目が、顧客との距離の縮め方だ。

 

1つ目に関しては真偽のほどは定かじゃないが、少なくともわたしはそう感じたし、2つ目についてはここまで書いた通りだが、たかだか20〜30分程度の短い時間で、「このお姉さんはわたしに好感を持ったから声をかけてくれて、彼女がいいと思う商品を紹介してくれてるんだな」と顧客に思わせる力は並大抵のものではない。

 

そして購入した商品は本当に質が良く、使った後の肌はパッと明るくなる。買うまでの体験も、実際の商品も、文句なし。こんなに満足度が高い買い物は初めてかもしれない。

 

 

フリーランスの方が人間関係は難しいのかもしれない

フリーランスは人間関係のしがらみがなくて楽そう、自由そう、なんてイメージがある。私もそんなイメージを抱いていた一人だ。

 

前職では編集者として働いていたので、仕事柄フリーのライターさんやカメラマンさんと仕事をすることは多かった。フリーランスならではの大変さやイメージされるほど自由じゃないこともわかっていたつもりだが、それでも私が好きな彼らは、面倒な人間関係や会社の慣習に縛られない、自由な存在に見えた。

 

だが実際に自分がフリーライターの真似事のようなことをしてみて感じたのは、イメージとは真逆のことだった。中でも、人間関係の難しさは予想外だった。

 

まず、編集部(編集者)のスタンスがそれぞれ違う。プロとして敬意を払ってくれる人がいる一方で下請けのように扱う人がいて、こちらの意見を尊重してくれる人がいれば意見なんて求めていない人もいる。

 

ここをわかっていなかった私は、いきなりもめてしまった。良かれと思って気合をいれて書いたら、完全に空回り。そんなことは求められていなかった。ろくなフィードバックがないままに、つまらない原稿に書き直しを依頼されるなんてことがあるとは思っていなかった。

 

そりゃあ、まだ始めたばかりで私が憧れたベテランの彼らのようにうまく立ち回れるわけがない。そんなことは重々承知だが、仕事のコントロールがヘタクソなことや仕事をくれる編集部との関係性ができていないこと、フリーランスという生き方自体に不慣れなこと、そして私の実力不足を差し引いてなお、こんな難しさは想像していなかった。

 

嫌な相手と仕事をしなければいけないことや、納得のいかない顧客のリクエストに対処しなければいけないのは、会社員でもフリーランスでも同じだった。

 

そして、相談できる人や愚痴が言える相手がいないことのしんどさを知った。

 

会社であれば上司や同僚がいた。仕事に行き詰れば上司に相談し、嫌なことがあれば同僚に愚痴をこぼす。そんなこれまで当たり前だったことが、フリーランスでは成り立たない。

 

もちろん信頼できる先輩や元同僚はいる。彼らは私の話を聞いてくれるだろうし、アドバイスだってくれるだろう。だが問題は、「同じ会社」という共通認識がないことだ。フリーランスには、人と共有できる仕事上の人間関係や文化がない。 私がどんなに事細かに説明を説明しようとも、やりとりの温度やスピードは伝わらない。恋愛中に生じたショックな出来事を説明しても、どうしても理解してもらえないあの感覚に似ている。彼と私のことは彼と私にしかわからないように、仕事相手とフリーランスの間で起こったことは当人にしかわからない。

 

さらに言うと、とりあえず同じ部署の隣の先輩に相談する、みたいなことができない。起きた出来事にはすべて自分で対処しなければならない。こう書くと何を当たり前な、という感じだが、実際に経験してみると、これはなかなかのプレッシャーだ。失敗したら自分の評価と収入に直結する。尻拭いをするのももちろん自分。だれも助けてはくれない。 

 

これが、まだ駆け出したばかりの今の気持ち。続けていくうちにどう変わっていくのやら。

「やりたいことを見つけるまでに20年かかった」

取材で、ある落語家にインタビューをした。

 

40歳で落語家に転身した彼に、どうやったらやりたいことを見つけられるのかを尋ねたら、

 

「僕は、落語にたどり着くまでに20年かかりました」

 

熱中できるなにかを見つけられるというのは、本当に奇跡みたいなことで、大半の人は自分にとってのスペシャルを見つけるのに右往左往している。

 

そんなことを再確認した取材だった。

女として扱われたいのに、女扱いをされたくないという矛盾

「女性でも非常に飲みやすいテイストだから飲んでみて」と、とあるビールを知人の男性からすすめられた。

 

わたしが好きなのはIPAという種類のアルコール度数が高く苦味が強いのが特徴のビール。日本酒だったら「スッキリして飲みやすい」よりも「どっしりして飲みにくい」ものが断然好みだし、軽やかな白ワインよりも重たい赤ワインを選ぶ。

 

だからだろう。「女性でも飲みやすいテイスト」という一文が妙に引っかかってしまった。なんだかジェンダー論のようだが、ここで書きたいのは「女性性の押し付け」といった類の話ではない。

 

ビールが苦手な女性は多いし、「女性は甘かったり軽かったりの飲みやすいお酒を好む」というイメージが一般的にあることはもちろん分かっている。

 

これが「プールサイドにはパラソル付きシートがあるから女性にもおすすめ」だったら、違和感は抱かなかっただろう。なぜならわたしは紫外線と日焼けを気にしているし、女性は一般的に日差しを遮りたいものだと思っているから。

 

そこで対象とされている女性に自分が該当しないとき、そこで定義されている女性のイメージが自分と一致しないとき、「女性だから」、「女性でも」、「女性ならでは」といった表現はとても居心地が悪い。

 

でも一方で、「女性なのに強いお酒好きなんだね」、「女性なのに一人旅が好きって珍しいね」といった、自分を特別扱いするかのような「女性なのに」はうれしい。そこで定義されている女性に自分が当てはまっていないのは同じなのに、優越感を抱く自分がいる。

 

たぶん、わたしは自分の好みが女性っぽくないことを自慢したいのだろう。「そこらの女と違う女」になりたい。そう考えれば、女性が好むビールをすすめられてモヤっとしたのも合点がいく。「わたしはそこらの女と違ってそんなビールは好みじゃないんだから!」という意識の表れだ。

 

ややこしいのは、わたしは「女性であることを否定したい女性ではない」ということ。女って楽しいと心底思うし、男性からは女として扱われたい。女として見られていない「女性なのに」はまっぴらごめんだ。見た目だってキレイでありたいから、シミが増えるのを恐れて日陰に行く。でも、普通の女とは思われたくはない。

 

そのくせ、「女性らしからぬ」部分は酒の好みや好きな漫画のジャンルといった瑣末な部分だけで、本質的な自分は呆れるほど「一般的な女」だ。

 

恋人ができれば彼が中心の生活になり、恋人に料理をつくることに喜びを感じ、仕事と愛だったら間違いなく愛を取る。なにか気に食わないことがあっても察してほしいと不機嫌に振る舞い、「怒ってる?」と聞かれれば「別に」と答える。「女の子だからコーヒーよりキャラメルマキアートの方がいいかな?」なんて言われても全く気にしない。普段なら「わたしはそこらの女と違ってブラックコーヒーが好きなのにナメたこと言いやがって」と胸の内で毒づくのに。

 

きっと自分がありふれたつまらない女であると知っているからこそ、他の女との違いを出したいのだろう。差別化して、価値がある女になりたいのだ。だから自分を好きだと言ってくれる男が「そこらの女」のイメージを元になにかを言ったとしても気にしない。だって彼はすでにわたしに価値を見出してくれているから。

 

女として扱われたいけど、女扱いをされたくない。この矛盾は、きっと自分に対する自信のなさの表れだ。見た目も中身も人並みだから、一生懸命「人とは違うポイント」を主張して、それで自尊心を保っている。

 

だからわたしは「女性でも飲みやすいテイストのビール」をすすめられたことに憤りを感じたのだ。数少ない、わたしの「人と違うポイント」が無視されたから。なんというめんどうな自意識か。

 

些細な他人との違いをアピールして「自分が特別である」と思うことは、裏を返せば自分が特別でないことを認めているのと同じこと。それがわかっているからこそ、人と違うポイントを必死に探そうとする自分の小ささにうんざりする。