fusachikoの日記

会社を辞めて、外国へ。

英語の上達を実感したいときにすべきこと

f:id:fusachiko:20170224220528j:image

公用語も母国語も英語のシドニーで生活をしていると、みんなが話す言葉は当然英語だ。それはそれは流暢にベラベラしゃべるわけで、わからないことばかり。まれに「あ、前よりスラッと言葉が出たかも」なんて思うことはあるけど、それよりも聞き取れなかったり、言いたいことが言えなかったり、落ち込むことの方が多い。

 

でも先日イタリアに旅行に行って、自分の英語力が確実に伸びていることが実感できた。

 

理由はおそらく3つある。

 

1つ目は、イタリアが英語圏ではないこと。お互い母国語でない、不得意な言語で話しているわけだから、難しい単語もなければ話すスピードもゆっくり。やたら巻き舌だったりするイタリア訛りはあったけど、こちらもジャパニーズアクセントなわけで、お互い様なのが安心感につながる。

 

2つ目は、いつも一緒に旅行をする友人との比較。今までは二人して「?」状態だったのが、今回はわたしだけ理解できている場面がたくさんあった。これは大きな自信になった。親愛なる友人よ、ありがとう。

 

3つ目は、過去の自分との比較。前に海外旅行をしたときに苦労したことが、なんなくできる。例えば、これまでは道がわからないときにその辺の人に聞くのは最終手段だったけど、今回は驚くほど気軽に聞けた。英語だけじゃなく、言葉の壁がある中でのコミュニケーションに慣れたことが最大の要因だと思う。

 

はたして自分の語学力は伸びているんだろうか、と不安に思うなら、やるべきことはレベルテストを受けることでも資格試験の点数を確認することでもない。英語がそれなりに通じる英語圏以外の国を訪れることだ。

「家族がいないからかわいそう」は傲慢だ

家族を幼い頃に亡くし、施設で育ったという男性に取材をした。周囲の人に笑ってもらうことが、楽しみながら自分の居場所を見つける唯一の手段だったと話す彼は、とても明るい人で、路上パフォーマーとして活動している。

 

施設で育ったから、家族がいないから、かわいそう。そんな考えを周りが勝手に抱くべきでは絶対にない。彼と話をしていて、そんなことを再確認した。

 

第一、自分の生まれ育った環境が、その人の”当たり前”だ。両親が恋人のように仲良しな家庭で育てばそれが本人のスタンダードになるし、逆もまたしかりだ。母子家庭や施設生活だって同じこと。一般的にみて普通じゃない育ち方をしていたって、本人にしてみればそれが普通だ。

 

それなのに、自分がいわゆる普通の家庭に育ったから、家族がいなくて施設で育った人のことをかわいそうだなんて、傲慢甚だしい。そりゃあ、「施設の生活がさみしくて布団の中で毎晩泣いていたんです」みたいな話を相手がしたならば、それはたしかにかわいそうかもしれない。でも、そういった話がない中で、「施設=かわいそう」「家族がいない=かわいそう」だなんて決め付けは絶対にしてはいけない。そんな失礼な話はない。

 

本人のことをよく見ずに、一般的なイメージだけで勝手にレッテルを張る。そんなことをする人にはなりたくないと心底思うけど、気をつけないとついやってしまう。歳を重ねるごとに、わかったつもりになりがちなことに対する自覚と危機感を忘れずに、いつまでもフラットに、柔軟な人でわたしはありたい。

「計画された偶発性理論」と「岡本太郎」

日本人の交流イベントで、ゲストスピーカーとして話をした。わたしなんぞが前に出て話すことなんて本当は何もないと思うけど、お誘いいただいたので引き受けた。今年の抱負は、来るものなるべく拒まず、だ。

 

当然上手に話せるわけもなく、緊張して固くなってしまったし、自分の出来なさに直面して落ち込んだわけなんだけれども、自分にとって大事な考え方がはっきりしたのは大きな収穫だった。

 

一つが「計画された偶発性理論」。ざっくり言ってしまうと、一生懸命頑張っていれば、計画されたような偶然が舞い込んで、人生がいい方向に進んで行く、という考え方。この考え方が大好きで、自分のこれまでを振り返っても、すごく納得がいく。

 

もう一つが、岡本太郎のエッセイ「自分の中に毒を持て」の中に出てきた、「複数の選択肢を前に悩んでいるなら、困難だと思う方を取れ」というもの。この考え方自体はよく言われることだし、特に珍しいものではない。わたしが好きなのは、その理由。

 

困難な選択肢なんて、本来真っ先に捨てられるものだ。なぜならば困難なことが目に見えているから。それなのにその選択肢と、その選択肢より簡単な選択肢を前に悩んでいるということは、困難な選択肢に惹かれているということにほかならない。だったら、どんなに困難であろうと、自分が一番グッときているその選択肢を取るのがいいに決まっている。

 

自分のことについてみんなの前で話をしてみて、この二つの考え方が、自分の思考のベースとなっていることがよくわかった。わすれないうちに明文化。

思った以上に日本人女性は簡単に外国人男性とセックスするらしい

台湾人とわたしともう一人の日本人でご飯に行った。その帰り道、その日本人の女友達の多くがオーストラリアにきてから外国人とセックスをしている、という話で盛り上がった。びっくりした。みんなそんなに外国人とセックスしてるのか。

 

わたしとその日本人は、外国人とのセックスは怖い派。相手の素性が知れないのは日本人でも外国人でも同じだけど、外国人の場合はコミュニケーションがしっかり取れないから、余計に相手のことが分からない。だから怖い。

 

彼女いわく、彼女の友人たちが外国人とセックスをしたのは、外国人への憧れかららしい。日本で簡単にセックスをするかというと、多分そんなことはないんじゃないか、というのが彼女の見解だ。

 

たぶん、ここが日本ではない、というのがポイントな気がしている。日本にいるときは日本の社会観念に従っていていたとしても、ここはオーストラリアだ。日本にいるときほど保守的になる必要はないし、多少羽目を外しても、ちょっとやそっとのことじゃ日本にいる友達や家族にはバレない。

 

前に日本人女性が簡単にヤレる理由は日本ではバカな女が好まれるからでは?というブログを書いたけど、女性側の外国人(西洋人)への憧れと、外国にいるから羽目を外してもOK!という意識も手伝っているんだろう。

 

fusachiko.hatenablog.com

 

わたしはあちこちで「日本人女性はすぐヤレる」みたいな話を聞くので、そんな簡単だと思われてたまるか!という反発心もあり、執拗なセックスの誘いを受けても幸い断れている。

 

fusachiko.hatenablog.com

 

今週のお題「恋バナ」

受身だからこそ大事な「誘われたら行く」のスタンス

とりあえず誘われたら行ってみる、というスタンスは、受身なようで案外重要な姿勢なのではないかという気がしている。

 

どんなに乗り気でなかろうと、集まる人たちに興味がなかろうと、行ってみれば新しい発見があるものだ。自分で交流を持ちたい人を集めたわけでもなければ、行きたいから行くという積極性があるわけでもないからこそ、予想外の何かが得れる可能性が高い。

 

積極性が重視される世の中だけど、受身だからこその偶然性というものもあなどってはいけない。

自分が話すことで引き出せる話もある

「いかに相手の話を引き出せるかが、インタビューの極意である」という話はよく聞くし、わたしも全面的に同意だ。どんなに優秀なライターと編集者の組み合わせであっても、原稿の素材となる取材がつまらなければ、掲載記事の出来もしれている。

 

つまり、いかに取材時に面白い話を聞けるかが肝となる。取材時間は限られているわけだから、どれだけ相手にしゃべってもらえるかがポイントになりそうなものだが、自分が話すことで引き出せる話がある、ということを忘れてはならない。

 

たとえば、「オーストラリアにきて好きになった食べ物はなんですか?」という質問。この問いかけだけだと、相手は「オーストラリア特有の食べ物の話を求められているのかな」と思ってしまいがちだ。

 

でもわたしの質問の意図は、「オーストラリアで食べて美味しかった食べ物はなんですか?」だったりする。だったら、自分がオーストラリアにきて食べて美味しかった食べ物の話をすれば手っ取り早い。「それがおいしかったのなら、これがオススメ」、「◯◯と言われて思い出したけど、そういえばアレがおいしいわ」など、こちらから実例を出すことで引き出せる話はたくさんある。

 

いかに相手にしゃべらせるかがインタビューのポイントなんて言われるけれど、案外予想外の話が聞けるのは自分がしゃべったときだったりする。インタビューする側が話すぎるのはよくないけれど、全く話さないのもまたよろしくない。

フリーライターを経験して、これまでの仕事の仕方を反省した

フリーライターとして仕事をしてみて、これまでの仕事のやり方を猛烈に反省した。

 

これまで編集者として媒体運営をしていたわたしは、長らく外注する側の人間だった。

 

正直に言うと、ライターさんのレベルは天から地まである。ほぼ修正なしで掲載できるすばらしい原稿を書く人もいれば、思わず未完成なんじゃないかと疑ってしまうクオリティの原稿を送ってくる人もいる。

 

今回わたしが反省したのは、その中間のライターさんに対する自分の対応だ。悪くはないし、しっかり仕上げてくれているけど、全体の雰囲気が媒体のテイストに合わなかったり、書いてほしい情報が入っていなかったりする原稿を、わたしは容赦なく加筆・修正しまくっていた。

 

もちろん手間はかかるけど、ベースとなる原稿がある分、一から自分で書くよりも格段に楽だ。だから修正の必要がある原稿であっても、ライターさんの存在はわたしにとってとてもありがたいものだった。それに、修正の依頼をするよりも、自分で原稿に手を加える方が早いし、相手の負担も軽くて済む。そう思っていた。

 

だが、自分がライター側の立場で仕事をしてみて、過去のわたしがいかにライターさんの気持ちがわかっていなかったのかを知った。

 

自分の原稿を修正されるのは、思った以上に気分のいいことではなかった。修正箇所が多ければ多いほど、「あなたの原稿は全然ダメ!」と言われている気分になる。この気持ちは、メールでどんなに丁寧に修正意図を補足しようと、原稿を依頼する際の説明不足をお詫びしても、カバーしきれるものではない。

 

まだフリーライターとして仕事を始めたばかりだから、原稿を直されることに慣れてない部分はあるにしても、ライターとしてのプロ意識やプライドをしっかり持っている人ほど、わたしの対応を不快に思ったに違いない。

 

これでよし!という気持ちとともにライターさんは原稿を送ってきてくれていたはずなのに、それぞれの考えがあっての原稿だったはずなのに、わたしは彼ら、彼女らの気持ちも考えも全部無視してしまっていた。

 

企画の意図をしっかり踏まえて、媒体のカラーを汲み取って、そうして原稿を仕上げるのがプロのライターだ。

 

でも一方で、企画意図はもちろんのこと、媒体の特性や原稿の仕上がりの雰囲気を相手がイメージできるように伝えるのが編集者の仕事だ。今振り返れば、わたしの仕事の依頼の仕方が十分だったとは思えない。

 

それなのに、時に「なんでこんな原稿を送ってきたんだろう」なんて不満を言うことすらあった。当時の自分に言ってやりたい。お前の説明不足だよ、と。